波佐見焼

波佐見焼
暮らしを彩る日用のうつわ
「波佐見焼」
庶民の器として誕生し、長い歴史の中で、さまざまな暮らしにあわせて変化してきた波佐見焼。
暮らしにとって身近で親しみやすい器が今でもたくさん生み出されています。

波佐見焼の開窯

波佐見焼は長崎県の波佐見という小さな焼きものの街でつくり出されています。白山陶器も波佐見焼のひとつです。
波佐見焼の開窯は、慶長3年(1598年)に大村藩主・大村喜前が朝鮮出兵の帰国の際に伴ってきた李祐慶兄弟らの陶工が、慶長4年(1599年)に波佐見町村木の畑ノ原、古皿屋、山似田に連房式階段状登窯を築き、始められました。

磁器への移行

波佐見焼といえば、現在では呉須(藍色)で絵付けされた染付と透けるような美しい白磁が主流ですが、波佐見焼の開窯当初は陶器を生産していました。慶長7年(1602年)に良質の磁器の原料が発見され、波佐見焼はしだいに染付や青磁を中心とする磁器へ移行。江戸後期には染付が日本一の生産量になり、染付・青磁ともに大生産地に発展。それにより波佐見焼は、日本を代表する磁器産地となりました。
江戸時代は出荷の経路により当時の港の名で「伊万里焼」、明治以降は出荷駅の有田の名で「有田焼」として流通されていました。しかし昭和53年の伝統的工芸品の指定などによって「波佐見焼」と呼ばれるようになり、ようやく波佐見焼の名が知れ渡るようになってきました。

くらわんか碗とコンプラ瓶

波佐見焼の歴史で欠かせないもののひとつが「くらわんか碗」です。江戸時代、大阪の淀川沿いの乗り合いの船に、小舟で近づき「餅くらわんか、酒くらわんか」と声をかける商人のその言葉から名づけられたといわれています。唐草模様を筆で簡単に描いた厚手で素朴な波佐見焼は手頃な金額で売られていたことで、「磁器腕は庶民には手が届かない高級なもの」という当時の常識を大きく変え、たくさんの庶民の人気を集め、日本における庶民の食文化の発展に大きな影響を与えました。
くらわんか碗とならんで波佐見焼で有名なものが「コンプラ瓶」です。出島から東南アジアやヨーロッパへと輸出された酒や醤油を入れる染付白磁の容器のことで、JAPANSCHZOYA(日本の醤油)、JAPANSCHZAKY(日本の酒)とオランダ語で書かれた文字と、安定性を考えたどっしりとした独特のデザインは、ヨーロッパ人の注文によるものといわれています。ロシアの文豪・トルストイやフランスの皇帝ルイ14世にも愛用されていたといわれています。

波佐見焼の現在

町のあちらこちらに残された登窯跡が物語っている400年の歴史をもつ波佐見焼は、現在もその時代の人々のさまざまな暮らしにあわせて変化し、常に新しい技術に取り組みながら良質の日用の器たちが生みだされています。

波佐見焼の商品一覧