益子焼

益子焼
味わいのある素朴な器
「益子焼」
益子焼は土の味わいが感じられる、厚手で素朴な器です。
柳宗悦とともに民芸運動を起こした濱田庄司により益子の町は民芸陶器の里となりました。
ここでは、「益子焼」と「民芸運動」について紹介します。

益子焼の開窯

益子焼は栃木県の東南部に位置する益子町でつくり出されています。
江戸時代の終わり、嘉永6年(1853年)に益子町の近くの茂木に生まれた大塚啓三郎により益子焼は開窯されました。
益子焼の始まりは大塚啓三郎が、益子に隣接する茨城県笠間にある風台院で修行をしていた時に陶芸に興味を覚え、やがて益子で良質の陶土を見つけてやきものを始めたといわれています。

濱田庄司と益子焼

益子焼が一躍有名になったのは、陶芸家 濱田庄司が益子に定住し、益子の素朴な土と釉薬によって民芸的な作家活動を始めたことで益子が民芸運動のひとつの拠点となり、多くの陶芸家や民芸運動の人々がここを訪れるようになったからです。濱田庄司らとともに民芸運動に参加していた、英国人バーナード・リーチもここで作陶しています。
現在、濱田庄司の器は益子にある「陶芸メッセ・益子」と「益子参考館」で益子焼の作品を観ることができます。
□ 陶芸メッセ・益子
濱田庄司の作品や益子焼はもちろん日本全国のやきものを集めた益子陶芸美術館と、地元出身の版画家笹島喜平館などがあります。敷地内には濱田庄司の旧邸の母屋が移築されており、台所なども見ることができます。
□ 益子参考館
濱田庄司自らが、参考にした世界各国の品々を一般の人々の参考にとの意図によりつくられました。参考館は生前の茅葺住居、仕事場だった工房、登窯などをそのまま公開しております。また本人や益子焼はもちろん、バーナード・リーチや河井寛次郎らの作品も展示されております。

民芸運動について

□ 民芸運動のはじまり
大正14(1925)年の秋、柳宗悦は濱田庄司や河井寛次郎と共に木喰上人の足跡探索のため和歌山県を訪れていた旅の車中で、これまで下手もの(民衆の生活用具である食器、家具、衣類など)と呼ばれて顧みられることのなかった民衆的工芸を「民芸」と名づけました。
その翌年の大正15(1926)年に柳宗悦が「日本民芸美術館設立趣意書」を発表し、民芸運動がはじまりました。
□ 民芸運動とは
柳宗悦は“民芸の美しさは日常生活における人とのふれあいの中に生まれ、日常生活に耐えるようなものでなければ美しさは生まれない"と考え、日常で使われるからこそ美しい「用の美」、各地域の伝統を受け継いだ無名の工人が美というものを意識したわけではなくつくりだされるものの中にこそ、健全な美しさがあることなどを述べています。
これまで顧みられることのなかった民芸を見出し、価値や美しさを広めるために行った運動が「民芸運動」です。
また、1931年に雑誌「工芸」が創刊。1936年には東京駒場に「日本民芸館」を設立し、ここを拠点に柳宗悦は、濱田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチらとともに活動しました。1939年に「月刊民芸」が創刊。民芸運動は各地の隠れた多くの民芸を発見し、紹介するとともに伝統技術の承継に貢献し、後の世に大きな影響を与えました。

益子焼の現在

益子焼は民芸運動の流れを受け継ぎ、今でもたくさんの陶芸家が活動しております。伝統窯に加えて多くの個人窯もあり、窯元は400を越えるともいわれています。
従来の民芸陶器に加えて伝統や様式にとらわれない自由な作陶活動も行われ、益子焼の心温まる素朴な土の味わいある器が生み出されています。

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